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作者より

司馬遼太郎氏の幕末小説を読み始めた中学生の頃から、新選組よりも尊攘志士の方が好きだった。彼らは新選組と違って、間違いなく何かを目指していたからだ。
しかし池田屋事件が出てくる大半の小説は、新選組サイドから書かれており、志士たちは不逞浪士と呼ばれ、テロリストと何ら変わらぬ扱いを受けていた。
彼らは陰謀をめぐらすために池田屋に集まり、ひたすら新選組に斬られていた。
それゆえ、いつか彼らの池田屋を書きたいと思っていた。しかし、まとまった史料がない。そこに、中村武生氏著の『池田屋事件の研究』(講談社現代新書)が出た。

私は、新選組の引き立て役にすぎなかった彼らを、血の通った人間として現代によみがえらせることにした。
この作品は群像劇として長編にもできたが、短編を求める小説誌の要望に応じ、連作長編という小説手法を使った。
冒頭の『二心なし』は、池田屋で死んだ志士たちの中でも、とくに謎に包まれている福岡祐次郎を主役に据えた一篇。時代小説テイストを濃厚に漂わせ、ストーリーテリング力を駆使して書いた。読みやすいこの一篇の中で、当時の政治情勢を密に描くことで、続くエピソード群において、政治情勢の説明を必要最小限にした。志士とは縁遠かった男が、真の志士になるまでの過程を通して、「志士とは何か」が見えてくるはずだ。
二篇目の『士は死なり』は、土佐の北添佶摩を描いた一篇。理想と現実の狭間で、悩むのは志士も同じ。つい目先の事態を打開することで、理想も実現すると勘違いしがちである。その点、本稿の主人公である北添佶摩も、神戸の海軍操練所から脱出した望月亀弥太も、天誅組に参加した土佐藩士たちも、歴史に翻弄されたと言える。スリリングな展開に富んだ一作。
三篇目の『及ばざる人』は、肥後の宮部鼎蔵を主人公に据えたもの。当初、これを表題作に据えようとしていたほど、志士というものの本質を描ききれたと自負している。拙著をすべて読み切っている八十八歳になる母が、「長編も含めた全作品中の最高傑作」と言ってくれた渾身の一篇。
四篇目の『凜として』は長州の吉田稔麿を描いた作品。稔麿といえば二十四歳という若さで死んでいった志士として、幕末ファンの記憶にとどめられていると思う。その清冽な生き様を描くにあたって、どうしても後味のいいものにしたかった。それゆえ時間遡行という難易度の高い荒業を使い、ラストシーンは、江戸に旅立つ十二歳の稔麿のシーンで終わらせている。歴史・時代小説という古い器に、新たな酒を入れることに成功した会心の一作。
五篇目の『英雄児』は長州藩京都藩邸留守居役の乃美織江の視点から、桂小五郎を描いた作品。志を持たない官吏にとって、幕末という時代は迷惑以外の何物でもなかった。乃美織江もそうした一人だったが、歴史の皮肉か、幕末京都の中で最も危険な長州藩京都藩邸留守居役に就いてしまう。本作品中のベストチューンだと自負している。

幕末は熱い。
本来、戦国よりも幕末が好きだった私にとって、幕末の志士たちを描くことは長年の願望だった。それがこうして実現して感無量である。

書籍データ

・価格 : 1,600円(税別)
・単行本 : 331ページ
・出版社 : 講談社
・ISBN : 978-4-06-2191937
・発売日: 2014/10/21

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